Shamrock(3)


 目眩く時は流れ、気がつけばヒースの花が所々を紫色に染め上げていた。今年度はクィディッチがないとはいえ、三代魔法学校対抗試合に備えての手当・薬品準備やら代表校の到着やら、なんやかんや新学期から忙しくてたまらなかったのだ。その上、十一月ともなれば、いよいよ冷え込んでくる。季節の変わり目で風邪を引く生徒も恒例のように出始めて、医務室は今日も混み合っている。今月の末には第一の課題が控えているということもあり、マダム・ポンフリーは一段とピリピリした雰囲気を纏い、医務室内を‶安全な速度〟で駆け回っていた。
 元気爆発薬を投与し、耳から煙の噴き出している低学年の生徒を見送った。そして次に対面したのは、この部屋の常連客の一人である、上級生だ。

「チョウ!」
「ハロー、なまえ。なんだか久しぶりに感じるわね」

 レイブンクロー生のチョウ・チャンだ。九月にクィディッチワールドカップのことを話した時以来、なかなか会う機会がなかった。(もちろん、医務室に来ないことが一番好ましいのだけれど)

「今日は……ちょっと頭が痛くて」
「頭痛? ——ああ、五年生だものね。頑張ってるんだ」

 チョウはこくりと頷く。三校魔法学校対抗試合があるからといって、五年生のO・W・Lは決して先延ばしにはならないのだ。私は慣れた手つきで魔法薬の準備をした。

「マリエッタは元気?」
「今のところはね。でもあの子、私以上に真面目だからそのうち倒れちゃうと思うわ」
「ふふ、懐かしい。私も試験の年はそうだったわ。勉強はどう? 順調?」
「そんな訳ないでしょう!」チョウの声が高く響く。
「ほんと、このタイミングでO・W・Lを迎えるだなんて、ついてないことこの上ないわ。気分転換のクィディッチも今はできないし!」
「んー…まぁ、そうね」

 確かに、彼女の学年には同情する。ただでさえO・W・Lは一年中気を揉むのに、今年は学校どころか国中が盛り上がるイベントが間近に控えているのだ。普段関わることのない他校の生徒がホグワーツに常駐しているのもまた、ストレスに感じる要因のひとつかもしれない。

「はい。これを飲んで。もうすぐ効いてくるはずだから——それと、課題も気になるだろうけど少し眠った方がいいわ」
「ありがと」

 小さなゴブレットで薬を完飲したチョウはすぐ立ち上がるのかと思いきや、ひとつため息をついて、肩を落とした。

「元気爆発薬も飲んでいく?」
「ああ——いや、大丈夫。ただ……、もう少しだけここにいて、話聞かせてもらってもいい?」

 彼女は不安げに瞳を歪める。こっそりとマダム・ポンフリーの動向を窺うが、忙しなく動いているあの感じだと、こちらの様子など全く気に留めてもいなさそうだ。黙ったまま頷いて、このまま話すように促した。チョウは少しだけ声のトーンを落とす。

「なまえは、癒者になりたいっていつ頃から考えてた?」
「……え?」
「O・W・Lの頃、N・E・W・Tの頃……、それよりもずっと前とか?」

 不意打ちをくらい、ぽかんと口を開ける。まさか自分に対して進路相談の話を持ち出されるとは思っていなかったのだ。
 チョウは続ける。

「レイブンクローのみんなって、自分の将来のビジョンを明確に持っている子ばかりなの。卒業後は魔法省に入りたいとか、クィディッチ関連の仕事に就きたいだとか。それこそ癒者も。ホグワーツも五年目になって、いろんな経験も詰んだし勉強もしてきたわ。でも……私、まだ自分のやりたいことが分からない」

 彼女の気持ちは痛いほどによくわかった。私も同じような生徒だったと思うから。少しでも彼女の為になる話をしてやろうと、口をつぐんで記憶を馳せる。しかし、私がどうして癒者になろうと思ったのか、どうしても思い出せない。
 成績は確かに良かった。地頭がよかったわけではなかったから、勉強に関してはかなり努力していた。首席は流石になれなかったけれど、監督生には選ばれた。でも、人を救いたい——つまり癒者を目指していたからそこまで頑張っていたというわけではないのだ。実際、なってしまってからは仕事内容のキツさと、周りと自分に感じる劣等感で辛くて辞めたいと思うことの方が多かった。
 じゃあ私はどうして癒者になったんだろう? どうしてさっさと辞めてしまわないんだろう?

「……なまえ?」

 はっとして目線を上げる。医務室はシンとして、チョウが心配そうに顔を覗き込んでいた。

「なにか、悪いこと訊いちゃったかしら?」
「え、いや……そんなことない。ホグワーツ時代を思い出してたら、なんだかぼーっとしちゃって。ごめんね」

 笑顔を作ると、チョウの不安げな顔は少しだけ和らいだ。思い出せる範囲で記憶をひとつずつ引き出しながら、私はゆっくり続ける。

「ずっと癒者を目指していたというわけじゃないの。私も、どちらかというとN・E・W・Tの年まで将来のことなんて考えられなかったわ」
「そうなの?」
「うん。もちろん勉強は頑張ってたわ。その方が選択肢が多くなるから。……でも、目標がないからといって焦る必要もないと思うの。だって、卒業まではあと二年残されているわけだし。私みたいに、直前でやりたい仕事が見つかるかもしれない。焦って決めたところですぐその仕事を辞めたくなるようじゃ意味もないし、結局はなるようになるのよ」

 なるようになる——これはハッフルパフであった私の、昔からの持論であったが、レイブンクロー生の彼女にこの抽象的な意見が理解されるかどうかは分からない。ただ、チョウの表情を見るかぎり、その悩みは少しは軽減されたような気がした。薬が効き始めたからかもしれないけれど。

「まぁ、そうよね……。とりあえずは試験勉強を、頑張ってみようかしら」
「それでいいと思う。もしかすると就職なんてしないまま、将来の相手を見つけちゃう可能性だってあるしね。今年はチャンスよ。ほら、ダームストラングの猛々しい生徒さんたちだっているんだから」

 チョウがくすくすと笑い、肩を揺らす。私も同じように笑った。基本的に張り詰めている医務室の空気が、ひだまりに包まれるように穏やかになった。マダム・ポンフリーは医務室での談話などあまり好まないけれど、私はこういう時間も大切なのではないかと思うのだ。
 ふと、机の上に置いた時計を確認する。もう昼休みの終わりが近い。

「もうすぐ五限が始まるわ。授業入ってる?」
「本当だ。一応空きだけど……寮に戻って寝ちゃおうかしら」
「うん、癒者的にはそれが良いと思う」

 立ち上がった彼女のローブの裾を正してやると、「ありがと」と女の子らしい微笑みが返ってくる。

「そういえば、あのネックレスは外しちゃったのね」

 突然の指摘が一瞬理解できなくて、きょとんとした。そうだ。新学期の頃はまだ身につけていたんだっけ。

「そうなの。でもね、あまりに色んな人から質問されるから、外しちゃったわ。自分の部屋の引き出しの中に大切にしまってある」

 チョウやマリエッタだけでなく、他の生徒たち——特に女生徒——に加え、ムーディ先生までにも目にかけられてしまっては、普段の生活も落ち着かない。

「ふふ。だって、あなたがアクセサリーをしてるのなんて、珍しいんだもの」
「そんなに?」
「そうそう。次会うときは、あなたの話も聞かせてね」

 始業を知らせるベルがホグワーツ城を轟かせる。それを合図に「じゃあ」とチョウは去っていった。——かと思えば、出口のあたりで再びこちらに振り返った。

「忘れ物?」
「うん。大事なこと言い忘れてた」

 艶めく黒髪をなめらかに揺らし、彼女は朗らかに言う。

「なまえみたいな先生と、ホグワーツで出会えてよかった!」

 パタパタと乾いた足音が徐々に遠のいていく。私はというと、椅子に腰を下ろしたまましばらく呆気に取られ、動けなかった。
 彼女が残した言葉は、まるで甘いものを食べたときのような幸福の感情を連れてきた。その一言だけで胸が満たされていく。私だって同じだ。ホグワーツに来られてよかったと思う。ずっと辞めたかった癒者という仕事に初めてやりがいを見つけられたのは、ここの生徒と教員方、そして優しく厳しく指導してくださるマダム・ポンフリーのお陰だ。だからこそ、チョウの言葉は同時に締め付けられるような苦しみももたらした。
 私は今年いっぱいでこの仕事を——癒者をとうとう辞職することが決まっている。